浮世絵の解説

宿場 宿場 宿場 宿場 宿場 宿場
1 日本橋 12 三島 25 金谷 34 二川 43 桑名 50 土山
2 品川 13 沼津 26 日坂 35 吉田 44 四日市 51 水口
3 川崎 14 27 掛川 36 御油 45 石薬師 52 石部
4 神奈川 15 吉原 28 袋井 37 赤阪 46 庄野 53 草津
5 保土ヶ谷 16 蒲原 29 見附 38 藤川 47 亀山 54 大津
6 戸塚 17 由井 30 浜松 39 岡崎 48 55 京師
7 藤沢 18 興津 31 舞坂 40 池鯉鮒 49 阪之下
8 平塚 19 江尻 32 荒井 41 鳴海
9 大磯 20 府中 33 白須賀 42
10 小田原 21 鞠子
11 箱根 22 岡部
23 藤枝
24 嶋田












海道五拾三次之内
1.
日 本 橋(朝之景)

東海道の出発点日本橋を描くには、江戸封建社会の最上層を占めた武士大名行列の出立を描く以外にない。しかも朝焼けの空をバックに、江戸の威勢のいい魚市場の人々をそれに点描する。現在の築地魚市場は大正大震災で移ったもので、それまでは日本橋の東、江戸橋までの日本橋川北岸に江戸時代からあった。日本橋から京都三条大橋まで百二十五里二十町の道程がここから始まるのである。中空に高く立つ毛槍も爽快な旅立ちを示す。






東海道五拾三次之内
2.
品   川(日之出)

日本橋から二里の品川は第1番目の宿場である。高輪で江戸と別れて、湾曲した道なりに品川へ着く。右手に八つ山の崖がみえ,駕籠を降りた旅人や土地の者たちが土下座している。大名行列のしんがりが描かれ、行列を見送り終ったところである。吉原は江戸の北にあったため北楼といったのに対して、品川は南とよばれ、江戸人は品川の遊里に足をのばしていた。広々と青い海に白帆を上げた船が描かれ、画面の右半分とは対照的な感じを出している。





東海道五拾三次之内
3.
川   崎(六郷渡舟)

日本橋を出立して、はじめての渡舟が多摩川の六郷の渡しである。十三文の舟賃でここを越すと川崎の宿になる。川崎大師へ参詣の厄年の女性、行商の男、いろいろと想像をめぐらせる乗客が描かれ、番所には渡し賃を払う男も点描されている。現在と違った静かなたたずまいのなかに、江戸から離れていく旅の哀愁がただよう。その中で棹をふんばる船頭が画面のアクセントとなっている。広重の描く東海道シリーズには必ずこの初めての渡しを描く。





東海道五拾三次之内
4.
神 奈 川(臺之景)

"此宿は船着にて旅舎商家多く繁昌の地也。神奈川台として風声の勝地にして(中略)海辺に出崎あり。本牧十二天の森という。稲毛弁天の祠あり。沖を本牧の沖という"(東海道名所図会六)のごとく,左方にある遠方の半島は本牧岬であろう。"臺の景"は神奈川台と呼ばれる海沿いの丘を意味し,右手に急坂が描かれている。安政5年の神奈川条約からここは静かなそしてのどかな風光は一変して、文明開化の激変に遭遇
することになる。





東海道五拾三次之内
5.
保土ヶ谷(新町橋)

『江戸名所図絵』巻之二によれば、「程ケ谷新町」を帷子町、岩間町、神戸町の各上下を合せた驛としている。その下帷子の南新町駅舎の入口を流れる川幅十五間の流れを帷子川といい、それにわたす板橋を帷子橋(この広重の作では新町橋になっている)といった。同書にこの川の図が掲載されているが,広重のこの作品と同じく橋の袂に「二八」のそば屋の看板がみえ、恐らくともに実景にそくしたものと考えられる。漢画風の立木が画面を引き締めている。






東海道五拾三次之内
6.
戸   塚(元町別道)

「左りかまくら道」の道標が燈寵とともに橋のわきに描かれている。ここから二里さきの鶴岡八幡宮への道しるべである。江戸からすでに十里半、旅人のはじめての宿りがここである。大山講中(阿夫利神社参り)、月島講中、百味講(江の島参り)、神田講中、京橋講中、太々講(伊勢神宮参り)の札がさがっている。「こめや」はこれらの人々の定宿なのであろう。膝をかがめて客をむかえる女と、馬から降りる旅客の描写は動的で面白い。





東海道五拾三次之内
7.
藤  沢(遊行寺)

描かれている鳥居は、文政6年8月に再建された銅製のもので、藤沢宿から江の島にまいる所謂「江の島道」の第1鳥居である。ここから一里五丁で江の島に至る。そのわきに4人の盲人、橋上の大太刀をかつぐ姿の大山詣の男が描かれ、この辺は東海道と江の島道の分岐点でかなり賑わったようである。遠景には時宗の本山、遊行寺(藤沢山無量光院清浄光寺)が描かれている。その右手にある家並は道場坂の存在を示し、
藤沢宿をよく描いている。






東海道五拾三次之内
8.
平   塚(縄手道)

縄手道は田の間の道即ちあぜ道のことである。そこにスピードをもって走りくる飛脚と、空の四手駕(4本の竹を柱として割竹を編んで作った駕籠)をかついで帰るのんびりと歩く2人達がいて、動と静の描写がみられ、画面の焦点となっている。後方の丸い山は高麗山といい、そのたかく麓には高来(高麗)神社がある。朝鮮半島の高句麗は668年に滅亡したが、その王族の1人若光が大磯に上陸し、この山麓に住んだという。奇抜な山容はこの絵を印象づけている。






東海道五拾三次之内
9.
大   磯(虎ケ雨)

右手高麗山の麓と左手海岸との間を通る東海道に、日本橋出立後はじめての雨が降っている。化粧坂といわれる地点に近い。鎌倉時代ここは遊女屋が多く遊女虎御前もそのなかの1人。もと山梨県中巨摩郡芦安村の生まれで、生来の美貌から大磯の長者にむかえられた娘であるが、江戸時代に遊女として曽我十郎結成の愛人となる。十郎が父の仇を討った後、19歳で尼となり菩提を弔ったというエピソードをもとに「虎ケ雨」としたのであろう。





東海道五拾三次之内
10.
小 田 原(酒匂川)

江戸を出てはじめての城下町、大久保忠朝の居城の地が小田原である。しかしここでは小田原に入る手前の酒匂川の「かち渡し」の様を描いている。箱根の山系は逆光をうけて藍色に整え、近くの山は三角形の山ひだを見せて城を囲む。広々とした河のなかで小人物が数十人も描かれるが、その各々に動きをみせて生きている。黄色の空に墨の一文字は夕暮の近い雰囲気を巧みに表現していよう。酒匂川は富士山、丹波山地、箱晦山に発した45粁に達する流れである。





東海道五拾三次之内
11.
箱   根(湖水図)

岩肌もあらわにした山肌はいかにも高々とそびえ、山合いをぬっていく行列とともに、険しい道筋を巧みに描き出している。この画面右半分に対し、面積6.89平方キロメートルの芦の湖を広々と描き、山波の彼方に一きわ高い富士をくっきりと中空にとり、構図的に変化のある画面をなしている。この湖畔にある関所は厳重をきわめ、そそりたつ箱根の山路は天下の険として旅人の難所の1つでもあった。モザイク風の岩肌に新鮮味がみられる。





東海道五拾三次之内
12.
三   島(朝霧

このシリーズのなかで、この作品ほどシルエットを効果的に駆使したものはない。朝霧のただようさまを、墨と青の2色にわけて遠景と近景を巧みに表出し、その雰囲気を見事に描ききっている。朝立ちの旅人たちの姿態も変化をもち、馬上の人も道行く人々も首をうなだれ、顔をかくして眠たげに、駕寵舁きの足取りも重たげである。濃い藍で引かれた画面最上部の空(一文字)は明けやらぬ朝を示し、樹木の遠近表現も巧みで、霧中の景がよく描き出されている。





東海道五拾三次之内
13.
沼   津(黄昏図)

この図は保永堂版東海道のなかで唯一つの月景である。しかも満月の中空にかかった黄昏は、旅愁を一際感じさせる。川に沿って曲っていく道には、猿田彦の大きな面を背負った金比羅詣の白衣の行者と足も重たげな巡礼の母と子を描き、それに加えて亭々と直立した数本の立木がわびしさを添える。またこの図の持つ色彩感覚が実にすぐれている。藍の芸術家といわれる広重ではあるが、この図は藍色で殊更効果を上げている代表的傑作といえよう。





東海道五拾三次之内
14.
原   (朝之宮士)

沼津から一里半の道程で原宿につく。ここは昔浮島が原といわれ、富士や愛鷹の山から南下してくる渓流がみなこの平原に流れあつまり、大雨などには湖に変るという。一方原宿は五十三次のなかで、もっとも富士を近くにみ、もっとも美しい姿を鑑賞できるところとしても著名である。枠外へ飛び出た富士の頂を描く、特殊な場面もその山容を強調するためである。3人の人物と満目斎条たる枯田に2羽の鶴の取り合せもこの絵の格調を高めている。






東海道五拾三次之内
15.
吉   原(左宮士)

『東海道名所図会』によると「左富士 吉原駅より五町許東の方、中吉原といふ所より西一町許を土人左富士という。これは江戸より京都に登るに、都て右の方に富士を見て行くなり。ここに於いて道の非規によりて、暫く左の方になるにより此名をよぶ」とある。炬燵のやぐらの様な物を馬の鞍の左右につけて子供3人を乗せているが、伊勢道中ではこの乗り方が有名で、三宝荒神という。松並木がアーチ型になり、そのなかをいかにものんびりと進む。





東海道五拾三次之内
16.
蒲   原(夜之雪)

小降りになったのを見計らって家路を辿る人々であろうか、傘や蓑に雪を積らせて、ひっそりと静まりかえった宿場の道を足もともあぶなげに歩みをすすめている。雪の積った山や家々のふっくらとした姿は、静寂の世界を完璧なまでに構成し、濃墨と薄墨のみごとな調子によって深深と更けゆく夜を描き、無音の空間を現出させている。深い自然への融合がみられ、このシリーズの圧巻ともいえる作品である。異版に上空に墨を引いたものもある。





東海道五拾三次之内
17.
由   井(薩捶嶺)

東海道の親知らずといわれる薩捶峠は、一方は山高く、一方は駿河湾の大海にのぞむ難所であった。海の風雨にさらされて立つ]型の2本の松は、その懸崖のすごさとともに難路の地点を示す。しかし他方富士を取り入れた風光は絶佳で、断崖上に立って手をかぎす人物描写からそれを窺うことができる。薩捶峠の由来は、此浜から漁師の綱に地蔵薩捶の像がかかり、その地蔵が峠にまつられてあることによるという。このシリーズのなかで五指に入る名作。






東海道五拾三次之内
18.
興   津(興津川)

薩捶峠を越すとまもなく興津川越で、それを渡ると興津の宿にはいる。この川は夏冬ともに一尺四寸の深さを常水としている。冬は気温の低下のため、常水時に渡れる程の仮橋が設けられるが、夏は全く橋をもたない。水深が三尺一寸になると水流の早さを考慮して馬越がまず中止となり、四尺五寸になると人越も中止になる。角力取りであろうか、1人は馬で景色を眺め、1人は駕寵で水中の魚でもみているのであろう。7人の各々の顔付きの変化もー輿である。





東海道五拾三次之内
19.
江   尻(三保遠望)

江尻は現在の清水港であり、港にはもやい船と白帆をはらませた船とを描き、中央に三保松原を半島のように描く。遠方の高い山は愛鷹山塊で、これと右方の広々とした太平洋をもって雄大な景観をみせている。三保は駿河湾西岸の砂嘴(海岸から細長く突出した砂礫の堆積した地形で、海岸に沿う海水の流れで運ばれた砂礫が湾口に堆積し水面上に表れたもの)として地理学上、また天女羽衣伝統として有名である。春日のうららかな色調が気持ちよい。





東海道五拾三次之内
20.
府   中(安部川)

静岡県中部を南流して駿河湾に注ぐ安倍川は洪水時には水量多く、広い河原をもち、川止めも多く、東海道の難所の1つに数えられている。江戸時代幕府はこのような大きな川に軍事的な観点からみて、橋をわざと掛けず集団が敏速な行動をとることを防止したのである。輦台渡し、特に駕龍とともに渡る様子などがわかる上肩車で渡る人、荷を頭にのせるに人足や荷馬の様子も面白くみられる。人足の肌に黒色をまじえたものがあるのも注目される。





東海道五拾三次之内
21.
鞠   子(名物茶屋)

丸子、麻利子ともかく。蜀山人がここのとろろ汁について、芭蕉が"梅若菜丸子の宿のとろろ汁"と詠んだのはどんなものかと人に尋ねたら、麦の飯に青のりととろろをかけてきたという一文がある。画中に"名ぶつとろろ汁""酒さかな""御茶漬""御ちや津け"の文字が見える。茶屋内の男2人は弥次郎兵衛と北八を下敷きにして描いたと見る説もある。屋根に2羽の鴫がいる。春光うららかな茶屋の様子を芭蕉の俳趣のように描いている。





東海道五拾三次之内
22.
岡   部(宇津之山)

宇津山は鞠子と岡部の宿の間にあり、この山越も東海道のなかでいくつかある難所の1つ。上り下り4キロの道は、天正18年秀吉小田原攻めの時につくったのであるが、それ以前は蔦の細道として平安時代から和歌にも詠まれた古道であった。三段に落ちてくる急流や両側に迫る山容にひなぶる間道をよく表わす。その中央遥かに空間をみせ、薪を運ぶ仙人、それに行交う菅笠かぶる旅人、けわしい自然のなかにのんびりとした峠を描いている。





東海道五拾三次之内
23.
藤   枝(人馬継立)
宿々では幕府の助成のもとに、人馬の引継ぎをする問屋場が置かれ、無料の幕府御用及び定賃金をとる人馬を支給して、それらの休泊に関する用事を職務としていた。藤枝はその問屋場の一部を描いたものである。一切の事務を管理する問屋には、年寄(助役)、帳付(書記)、人足指と馬指(人馬を割当てる役)、迎番(小便)などがいた。手拭で背中をふく者、鉢巻をする者などなど、百態の人物描写が実に面白い。荷物の立札に版元の「保永堂」の字がみえる。





東海道五拾三次之内
24.
嶋   田(大井川駿岸)

嶋田と金谷の間はわずか一里であるが、その間に大井川という東海道第1の急流でしられる大河がある。水源は信州の山谷で、その流れは常に薄濁であった。長雨ともなれば淵瀬が容易に変り、東の山岸を流れて島田の原にあることもあれば、また一筋の大河となって大木砂石を流すこともある。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」そのものであった。俯瞰的に描いた大井川の川越え風景であるが、よくみると1人1人がまさに生きている。





東海道五拾三次之内
25.
金   谷(大井川遠岸)

静岡県中部を南流して駿河湾に注ぐ大井川は、赤石山脈に発し、山間部から平野部に出る谷口に発達する谷口集落として島田、金谷の両宿が繁栄してきた。嶋田と同様ここでもその宿場の様子を描かず、大井川の渡場を描く。卿相の雲客、烈国の諸侯は駕籠を台にすえ、多くの役夫にかつがせて渡る。前後に役夫はそれを囲って急流に足を揃え、声を合わせて渡るのであった。大別して蓮台、肩車の2種類あって8人でかつぐ輦台渡しが96文であった。広々とした大井川を渡れば駿河から遠江に入るのである。






東海道五拾三次之内
26.
日   坂(佐夜ノ中山)

金谷宿と日坂宿の間にあるのが、東海道中ひとつの難所といわれる小夜峠で、この峠の日坂よりに夜泣石があった。俗説によると、昔妊婦が山賊に殺されたが、子供は幸にして助かり、母の仇を討った話で、殺された女は傍の石にこもり毎夜泣きつづけたという。佐夜の中山はこの絵に描かれてる夜泣石とは別に平安時代から多くの歌人がこの地名を詠み込んだ古歌を残し、文学上著名な地である。





東海道五拾三次之内
27.
掛   川(秋葉山遠望)

傍印に「秋葉山遠望」とあることから、画面右上方の山塊は,12月15、16日の火祭で有名な秋葉山大権現を祀る、天竜川に臨む秋葉山であろう。橋の袂の御神燈は、鎮火、防火の信仰で室町時代以降山伏により宣伝された秋葉山の入口を示し、橋は二瀬川にかかる大池橋とみられる。腰の折れ曲った老婆と手を引〈連れの男、それに続く悪童,向いからは供をつれた輪袈裟を掛けた行者、行き交う人々の描写も少々滑稽さをもたせて描いている。





東海道五拾三次之内
28.
袋   井(出茶屋ノ図)

宿場の喧騒から離れた野中の出茶屋を描く。葉を一杯つけた大樹の下、葭簀張りの簡素な茶屋には、枝からつるした大きなやかん、草鞋をつるした屋内、野石を無造作に積み上げた炉、みな野趣に富んだ田園の景観である。姉様被の女、駕籠舁の2人にも田舎の味わいが横溢している。煙草をふかして休む旅人は武士のようであるが、その視線は庵形の立札にとまる小鳥を捕えている。縹渺とした広野を背景にした妙趣な一駒を巧みに構成している。





東海道五拾三次之内
29.
見   附(天竜川図)

見附は天龍川の要地として古くから栄えた。長野県諏訪湖に発して遠州灘に注ぐ250粁の大河である天竜川は、幅約十町にわたり、船渡しで有名である。商人、百姓は6文の船賃を払ったが、武士は無料であった。四尺九寸の水深まで船を渡すが、五尺になれば川を留めた。もっとも風が吹けばそれ以下でも止めるのが定めであった。中央に洲を描き、近景の2艘の渡し舟に、何か私語する船頭2人を描く。1人が立てている竿は、画面の中央にあって、2つの舟の横線に対して構図的に引締め、その効果は抜群といえよう。





東海道五拾三次之内
30.
浜   松(冬枯ノ図)

枯田をめぐらした1本の大樹によりそい焚火に暖をとる田夫、手をかぎす、背をまくる、頬被りをする、煙草をふかす、ごく日常の仕草が、もうもうと無風の空に舞上る煙を中心に描かれ、人間の息吹きが伝わってくる。枯草あつめの子守女や顔をみせずに振り返った旅人の姿、これら旅のひと駒に生々とした情感を感じさせる。江戸へ六十五里一町、京へ六十里十九町、すでに東海道は半ばをこえた。





東海道五拾三次之内
31.
舞   坂(今切真景)

海上一里の今切の船賃は幕末期1艘貸切りで506文、乗合で1人49文であった。明応8年(1499)大地震で湖と海の間がきれて入海となり、これを今切といった。そして永正7年(1510)さらに舞坂の原が沈み深淵となった。浜名湖の船旅は、今迄の陸路の旅と異なり、「柳行李に肘をもたげ、居眠りする」(膝栗毛)ような憩の一時であった。帆、小松、杭でまとめた近景に対し真白な富士を遠景においたのは極めて印象的で、冬の時節を示していよう。






東海道五拾三次之内
32.
荒   井(渡舟ノ図)

2艘の舟が往き交うシーンを描くが、1艘は手前の中間風の団体を運び、他は毛槍や吹流しをたて幔幕を張りめぐらした大名行列の一行を運ぶ。大あくびに舟中の何もすることのない退屈さがよく表現されている。右手遠方に荒井(又は新居)の船着場と関所が見える。この渡し舟は舞坂側には管理権がなく、荒井の関所で管理をしていた。そして箱根とならぶ厳しい取り調べの所でも名が知られていた。左方拡がる海は遠州海。明るい色彩につつまれた作品である。





東海道五拾三次之内
33.
白 須 賀(汐見阪圏)

ここに描かれている汐見阪は,白須賀宿の南側で、海蝕崖(海の波や潮流などによって生じた急崖)として知られる。その急坂であるために西の方からの旅人には、伊勢湾以東の広い遠州灘と砂丘の松林を見渡し、東方には富士の秀峰を望むことができ,、古くから歌人によってよくよまれた所である。淡墨と緑の山肌を重ねた間に大名行列が続き、左右両端に高い松樹の枝が中空にのび、その間に藍ぼかしの遠州灘の絶佳を描き、構図の巧みさを充分にみせている。





東海道五拾三次之内
34.
二   川(猿ケ馬場)

白須賀と二川の間はわずか一里であるが、その間に丘陵の地猿ケ馬場を通る。『東海道名所図会』では「猿馬場 左右原山にして小松多し。風景の地也。猿馬場の茶店に柏餅を名物とす」、また『東海道名所記』では「あづきをつつみし餅、うらおもて柏葉にてつつみたる物也」とある。丘陵の線を2つ描き、前景には三味線などをひき、歌をうたい密から物ごいをする瞽女ら3人と「名物かしわ餅」の看板をさげる茶店を描き、遠景に文献にみられる姫小松の野を描く。





東海道五拾三次之内
35.
吉   田(豊川橋)

吉田は現在の豊橋である。描かれている豊川橋は長さ百二十間、その下の豊川は、愛知県東部を通り渥美湾に注いでいる河川である。城は幕末期松平氏7万石のもので、城下町として賑やかな繁栄をこの吉田はもった。河畔の城郭は普請中であるが、高い足場には職人が働いている。頬かぶりをした1人は小手をかざし、左足だけで立ち、橋上の往来を望見している姿はこの絵の焦点となっている。江戸からすでに七十三里四町、遠い道程を経過したものである。





東海道五拾三次之内
36.
御   油(旅人留女)

吉田をたって二里二十二町で御油につく。ここの遊女は古くから有名で、この頃旅籠100余軒に遊女300人もおいたという。留女は飯盛り女、出女、おじゃれともいわれ、旅籠の店々から客引き女を出して1人でもわが店にと争って引っ張りこんだ。そして彼女らは1夜を慰める役も勤めた。不器量な女につかまり難渋している2人は滑稽にみえる。店に掲げた札に「彫工治郎兵ヱ」「摺師平兵衛」「東海道続画」「−立斎(広重)図」とみえ、このシリーズのスタッフが知られる。






東海道五拾三次之内
37.
赤   阪(旅舎招婦ノ図)

この作品は風俗画としてまことに興味深い。江戸後期の旅籠の有様が手にとるように判るからである。階段の下の行灯部屋、客座敷に両手に食膳をささげてきた女中とお伺いにきた按摩、それに対する客の姿態,煙草盆や手拭掛け、また右方布団部屋にはだか蝋燭をとぼして化粧をする脂粉の女、廊下に湯上りの男を描く。大きな蘇鉄がそれらの前景に描かれているが、実際に赤阪宿の旅籠に蘇鉄があったといわれる。按摩や女達の表情も注目に価する。





東海道五拾三次之内
38.
藤   川(棒鼻ノ図)

棒鼻は棒端とも書き、これより何宿と書いた棒を立てた所で、宿場のはずれをいう。広重は8月1日の朝廷への御馬献上の一行に加えられて東海道を上ったのであるが、その一行をここに描いている。献上馬の濃い葦毛と栗毛の2頭に御幣を立てている。一行を出迎えて土下座しているのは宿場役人とみえるが、小犬もかしこまっているのは滑稽である。宿場のはずれにある筑土や高札の他に境界・道しるべなどのために立てる榜示杭が描かれている。





東海道五拾三次之内
39.
岡   崎(矢矧之橋)

木曽山脈南部に発し、愛知県東部を南流、知多湾に注ぐ矢矧川にわたされた矢矧橋は長さ二百八開、高欄頭巾の金物、橋杭70柱で、東海道第1の長橋と知られる。この橋上で、秀吉が年少の時野武士蜂須賀小六と出合った話は有名である。川の中は白砂で、水深は一、二寸で浅い。東岸は水深があり積荷の船も通るが、反対側は大体が広い干潟になっていた。「五万石でも岡崎様は、お城の下まで船で着く」と俗謡にうたわれ、駿府に次いで栄えた。





東海道五拾三次之内
40.
池 鯉 鮒(首夏鳥市)

毎年4月25日から始まり、5月5日に終る馬市が立つ。池鯉鮒宿の東の野に4,500の馬が繋がれ、馬喰や馬主が集って馬の値段を決めるが、これを談合松という。この時、芝居者や遊女達が多く集って賑わしい日日を送る。前景、中景に野原と多くのつながれてる馬を、遠景には松の大樹を1本描き、大勢の人々がそこでたむろして馬の価を話合っているのであろう。首夏は4月の意で、夏草の生えた原に馬のさまざまな姿を描いている。





東海道五拾三次之内
41.
鳴   海(名物有松絞)

着物を店につるしている店がつづく。これは鳴海より約一里ほど東にあって、10余軒の有松絞を売る店がありその一部を描いたものである。ここの名産有松絞は細い木綿を風流に絞って紅や藍に染めたもので、慶長の頃有松村の竹田庄九郎が木綿しぼりで染色を試みたのに始まるという。店の商標は広重の紋でヒロの2文字を重ねたものである。4人の女の描写からみて、足袋わらじの女旅の姿態を集めて描いたように思わ
れる。





東海道五拾三次之内
42.
宮    (熱田神事)

宮は熱田神宮の門前町。6月11日に行われる例祭の馬追祭を描く。天と地に墨でぼかしを入れ夜の闇を表わし、中央に2頭の馬を追いたてながら先を競う2組の氏子が中心に、左の先頭の男の右手を頂点とした紡錘形に漸次右側に広がる構図を形成している。氏子たちの溢れんばかりの生命力を捉える。手前の氏子たちがつけている揃いの杵天は鳴海絞であるのも注目される。このシリーズのなかで最も喧騒な場面である。鳥居が熱田神宮を象徴している。





東海道五拾三次之内
43.
桑   名(七里渡口)

宮から桑名へ渡る七里の船旅は4時間を要した。航路は木曽川と落合う入海を通り、名古屋城や木曽の山々を北にみて、なかなかの眺めであった。この絵の描かれた頃には、75艘の海路渡船があり、小渡舟も42艘もあったという。桑名城は松平氏11万石の城で、白壁の城が浮城のようにみえ、これをみると航路の終りにほっと安堵の気持になった。帆を落た舟は入港している様で、波高の描写から、城をみたこの船中の者は
きっと安堵したであろう。





東海道五拾三次之内
44.
四 日 市(三重川)

三重川は一名御滝川といった。鈴鹿山脈から東方へ流れて四日市で海に至る。その川口であろうか、沼沢の地の土堤の先に一直線の板橋を描き、捨小舟を添えている。この作品のテーマは風である。中央に立つ柳の大樹も芦も人も皆強風に吹かれ、板橋の人物の合羽はちぎれんばかり、土堤に笠を追う人はころげんばかりである。風によって起こる現象をこれほどまでにリアルに表現した作品は見当らない。その点で特色ある作品として注目しなければならない。





東海道五拾三次之内
45.
石 薬 師(石薬師寺)

四日市より二里二十七町で石薬師に着く。現在鈴鹿市に属しているが、その地名は高貴山瑠璃光院石薬師寺が存在するところからきている。奈良時代泰澄上人開基という眞言宗のこの寺の本尊薬師如来は、七尺五寸の石造である。冬の寒々とした田に一筋の道が通り、その正面に石薬師寺の山門がみえる。浄厳にものさびた堂字は慶長年間(1596〜1615)神戸城主一柳監物直盛の再建。緑、すみ、藍の3段ぼかしの裏山がこの絵の格調を高めている。





東海道五拾三次之内
46.
庄   野(白雨)

白雨はにわか雨のことである。強風におおゆれの竹を3段にわけて描き、よこなぐりの雨はこまかい斜線にその激しさを現している。この激しい様相に描かれる人物は、駕寵をかつぐ2人は平然と、他の3人は体をよじまげて必死に風雨を防いで馳け散じている。自然と人物の描写が一体となって効果を高めている傑作である。雨しぶきに煙る竹林の遠近感がうす墨の巧みな使用法によって見事に表出きれている。このシリ
ーズで三指にはいる不朽の名作。





東海道五拾三次之内
47.
亀   山(雪晴)

亀山は鈴鹿山脈の東南の麓にあり、亀山藩6万石の城下町として発達した。右上方隅に城を描き、それに向って急坂を登っていく人馬の一行。左下から右上にたわむ線を構図の基本とし、この一行も,雪に包まれた松もすべてその方向を統一し、絵にリズム感を与えている。最上段の藍の一文字、中空と雪の白、左辺の紅のぼかしはすがすがしく晴れた朝の新鮮な空気をよく表現、気象画家といわれる広重の力量を遺憾なく発揮している名作である。





東海道五拾三次之内
48.
関    (本陣早立)

近江の逢坂関、美濃の不破の関、伊勢の鈴鹿の関これを三関といって有名であるが、そのなかの鈴鹿の関が昔ここにあったところから関宿といわれる。鈴鹿峠に至る重要な地点で、大名の宿泊などは亀山の城下町をさけて関に多く定められた。屋内にかかる札に、仙女香、美玄香とみえる。ともに京橋南伝馬町3丁目坂本氏発売のもので、前者は白粉、後者は黒油(白髪染)である。帳幕に描いている紋は、田と中を組み合
わせた広重の紋を御所車の輪に入れてある。





東海道五拾三次之内
49.
阪 之 下(筆捨嶺)

筆捨山は閑から阪之下に向かう右側にある。狩野古法眼元信東国通行の時,此山の風景を画にうつそうと筆をとったが,こころ及ばず山間に筆を捨てたという。山頭まで所々に巌があり、その間に枝葉屈曲した古松が描かれ、また渓谷をうずめる雲煙をへだてて、筆捨山の山塊が二条の瀧をもって迫ってくる。この奇峰を眺める崖上の茶店に数人の旅客が休んでいる。清澄な空気のなかで、荷をつんだ牛を曳く農夫と子供の点描に動きがあり、画趣をそえている。





東海道五拾三次之内
50.
土   山(春之雨)

阪之下を過ぎ、伊勢国と近江国の境、鈴鹿峠を越えて二里ほど進むと土山宿につくが、宿を出て四町ほどで松尾川に突き当る。この川は少し川下で野州川に合流して琵琶湖に注ぐ。松尾川には十五間ばかりの橋がかけられていたが、この作品はそのあたりを描いたものであろうか。蕭々と降る春の雨にうなだれて黙々と歩く行列、水嵩を増した川水は激しく流れ落ちてゆく。雨の多いこの辺の気候をとらえての描写であるが、画面の情趣は広重独自のものがある。





東海道五拾三次之内
51.
水   口(名物干瓢)

旅の楽しみは、その土地々々の名物に出会うことにある。それによって旅の醍醐味は何倍にもふくれ上がる。東海道の宿々でも皆それぞれにういろう名物があったが、中でも小田原の外郎透頂香(薬)、府中の安倍川餅、鞠子のとろろ汁、鳴海の絞染め、大津の大津絵など食物をはじめとして種種バラエティに豊んでいる。水口の干瓢もその例に洩れず有名である。夕顔の果実の肉をむく女、それを干す女の手仕事のなかに、夏のたたずまいをしっとりと描く。





東海道五拾三次之内
52.
石   部(目川ノ里)

石部と草津の間は二里半十七町であるが、草津に近く目川の里がある。ここは立場(街道で駕籠輦などが足を止めて休息したり、交替する所)で、菜飯と田楽の豆腐の暖かいのが美味であった。描かれている店の暖簾に「いせや」の字がみえるが、この伊勢屋は実在の店で、店の構えもほぼ同様であったらしい。樹木や遠山の描写には四条派の趣が多分に感じられる。それに対して店の前の一団の描写にはなごやかな旅を思わせる雰囲気がある。





東海道五拾三次之内
53.
草   津(名物立場)

看板に「うばもちや」の文字がみえる。佐々木義賢の子孫が、寛永の頃3歳の子を貞宗の刀とともに乳母に託して死んだが、その乳母は子を育てるために餅を製して往来の人に売ったのが評判になった。この場所が矢倉の立場で馬子や駕籠昇の出入が多い。人の動きに級密さを見ることができ、無駄な描写が1つとしてないのも見所であろう。また店の右方にはうっそうとした樹木のたたずまいをのぞかせているのは自然を描く広重ならではの配慮といえよう。





東海道五拾三次之内
54.
大   津(走井茶店)

大津は北越や近江国の産物や魚物などを船で運び込んでくるところで、毎日市が立ち、その多くの荷が人馬や牛車に積まれて、京都へ運送された。谷川や走り流れる清水をくんで用水とする場所を走井という。走井の名をとり餅屋をいとなむ。寒暑に増減なく甘味をもったる湧水は渇を凌ぐのには至便で、ここ逢坂大谷町の茶店に憩を求むる人が多かった。大津から京までの距離はわずか三里、東海道の長い旅路も正に終りに近づいたようである。






東海道五拾三次 大尾
55.
京   師(三条大橋)

賀茂川にかかる三条大橋は、長さ五十七間二寸、幅四尺一尺、石製の橋杭を用いた橋としては初めてという。勾欄の擬宝珠14個に、天正18年増田長盛が秀吉の命によって改築したという銘文が今でも残っている。橋上には、被衣(女性が外出するとき頭にかぶって顔を隠すための衣服)姿もみられ、京の雅びの風俗もみられる。東山三十六峰の山容、京の自然は心を安らえてくれる。日本橋にはじまり、三条大橋で完結する東海道は江戸時代最重要幹線道路であった。それは武の都と聖の都をつなぐかけ橋でもあった。