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9.大磯宿 虎ケ雨
大磯宿の旧東海道
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宿場
東海道五十三次
9.
大磯宿 虎ケ雨
歌川広重
天保3〜4年(1832〜33)

大磯宿の旧東海道

写真 二宮銀次郎様(小田原市)
  撮影   2000/12/10

図は、大磯の宿の入口から家並みを眺めたところで、宿場を降り過ぎるにわか雨と、遠く沖合いに日を受けた海の様子とが対照的である。
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国道1号線の松並木の東海道ではここが1番松ノ木が残ってる場所です。
宿場は、大磯は明治時代に伊藤博文や三井財閥が別荘を作り、戦後は吉田茂の私邸で現在国会議事堂に向って銅像が建っています。

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狂歌で下る東海道五十三次


    嵐吹磯部ぞ匂ふ梅沢は鮓あり肴いつもたへせず
    荒波の打大磯の虎が石鴫たつ沢は西行の庵


 小田原から二里半、間の宿二宮(神奈川県中郡二宮町)に着きました。ここは「梅沢の立場」とも呼ばれています。「茶屋軒を連ね、諸侯の休憩所もあり、すこぶる繁栄なり」と古書にも見えます。その諸侯の休憩所が茶屋本陣松屋です。またぞろ『参府日記』ですが、
 「夫より梅沢ニおひて松屋作右衛門宅へ昼休、同所よりあんこう魚の皮と子とを名物の由ニて献ス」
とあります。アンコウは骨以外は全部食べられ、特にゼラチン質に富んだ皮、ヌノとよばれる子(卵巣)は、肝(アンキモ)と共に美味とされています。新鮮な魚や鮓なども売られていたのでしょう。狂歌の「匂ふ」は「磯辺」と「梅沢」とに懸かっています。
 二宮から一里半、大磯宿(中郡大磯町)です。大磯が伊藤博文をはじめ、明治・大正・昭和の政財界人こぞって別荘を構え、高級リゾートとなったのは後の話。ここ延台寺に虎御石があります。曽我十郎の愛人虎御前が、十郎の死を悲しんで石になったといわれています(別の伝承もあります)。膝栗毛の弥次さんは「さりながら石になるとは無分別ひとつ蓮の上にや乗られぬ」と歌っています。広重のこの地を描いた絵は「大磯 虎が雨」。虎が雨とは、曽我兄弟が仇討ちを遂げ、兄の十郎が新田忠常に殺されたのが五月二十八日、その日に降る涙雨のことです。五月二十八日は江戸隅田川の川開きにもあたっており、川柳子は「虎が雨玉屋鍵屋も貰い泣き」とおどけてみせます。
 西行法師が「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」と詠んだ鴫立沢はこの大磯あたりの地名と言われています。寛文四年に、小田原の崇雪によって建てられた標石があり、ひばに鴫立庵があります。江戸時代前期の俳人、大淀三千風が建てたこの俳諧道場は、この地方の俳人たちの会席の場所になっています。わたしも俳諧の席に入れてもらいましたが、見事に全句選外。残念です。ではまた。

寄稿 八代市 ちくたく凡様