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11.箱根宿 湖水図
箱根宿の現在の風景
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宿場
東海道五十三次
11.
箱根宿 湖水図
歌川広重
天保3〜4年(1832〜33)

箱根宿の現在の風景

写真 二宮銀次郎様(小田原市)
撮影  2000/12/7

箱根越えは、東海道中の最難所として、行き交う旅人を悩ませた。この図は、箱根の名勝芦の湖畔の険しい風景で、険しい山間の坂道を、大名行列が越えて行く光景が綿密に描かれている。

目次
東海道中の難所の1つである箱根越えは、行き交う旅人を悩ませたところです。





狂歌で下る東海道五十三次


    串にさすだんご薯蕷手に持て喰々登る箱根山中
    四里登り権現堂に曽我の太刀さいの河原に地蔵ま
           します
    おかのぼる人の休ハ端の茶屋湯本のちゃ屋によね
            のまんじゆう


 箱根八里の西坂を箱根峠に向かいます。三島宿から箱根宿まで約四里、険阻な長丁場ですから腹も減ります。山芋だんごを喰い喰い登りました。杉並木と石畳の道が目立ちます。途中、秀吉の兜石を見、接待茶屋で休んで、箱根峠に着くとすぐに箱根宿(神奈川県足柄下郡箱根町)です。ここで一息入れて箱根の関所を通ります。「入り鉄砲に出女」厳しい関所です。前にも書きましたが、熊本藩筆頭家老松井章之は知行三万石、幕府からも百数十石の知行を与えられ、準幕臣ともいえました。江戸に下るときも小大名並の人数をひきつれて、鉄砲も十四挺所持していました。安政三年の『参府日記』に関所通行の様子が書かれています。
 「(前略)夫より峠ニ至、(箱根本陣)石内太郎左衛門宅ニ昼休、爰ニて供中粧を取繕、持せの筒十四挺証文差出ニ不及由、右太郎左衛門前以致手数置候付、爰を立御関所前如例乗輿ニて通、供中ハ雨天といへとも笠を一寸取申候、傘差居候者ハ其侭罷通候、其内医師・坊主なとハ御番所方え少進ミ寄、時宜いたし罷通候(後略)」
 諸大名の通行もこんなものではなかったでしょうか。庶民のわたしは恐る恐る、通行手形の代わりに、健康保険証を見せて無事通過しました。
 これから小田原まで約四里の東坂です。しばらく行くと芦ノ湖と富士山の絶景が開けます。近くの賽の河原にはたくさんの地蔵が立っています。ちょっと街道をそれて、芦ノ湖畔の箱根大権現(箱根神社)に参詣。社宝として曽我兄弟の「赤木柄短刀」がありました。
 街道に戻ってしばらく行くと於玉坂、関所破りで獄門にかけられたお玉の首を洗ったというお玉ケ池が近くにあります。出女の悲劇です。さらに東坂を下り、甘酒茶屋でひと休み。猿滑坂・七曲がりなどの険しい道を下り、畑宿の茗荷屋でまたひと休み。北条氏の墓所早雲寺の前を通って三枚橋へ。ここから左へそれて箱根七湯道にすこし入り込み、湯本の茶屋で休憩。よねまんじゅうの味が上々。ここで温泉に浸かって疲れを癒していくことにします。ではまた。

寄稿 八代市 ちくたく凡様