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27.掛川宿 秋葉山遠望
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宿場
東海道五十三次
27.
掛川宿 秋葉山遠望
歌川広重
天保3〜4年(1832〜33)

掛川宿の現在の風景

写真・文 冬冶様(掛川市)
撮影    2000/12/20

この図は倉真川(くらみがわ)に架かった大池橋で、向こうが袋井宿,手 前が掛川 宿の方向です。空に掛川凧があがっているが、この風景は田植えの頃で、早乙女が 田植えをしている姿がみられる。凧あげは稲作の神事の一つで、正月のほか田植え時 にもあげたようです。

目次
昭和の初期まであった大鳥居は、道路の拡張、舗装等の整備のため取り除かれた。秋葉街道をこの大池橋から10mほど入ったところに小さな祠、秋葉神社の遥拝所がある。




掛川宿の見どころ



事任八幡宮     
日坂宿を出た所にあり、古い歴史をもつ神社で 枕草子にも、思いのままに願いがかなうと記さ れています。

伊達方一里塚    
逆川をわたり掛川市街地に入る所に、日本橋 から57番目の一里塚があります。


                             

                     写真・文  冬冶様(掛川市)


 市街地の入り口には、城下町によくみられる、防禦を考えたジグザグに 屈曲した、新町の七曲と呼ばれる通りが設けられ、旧東海道は中心商店街 になっています。 
 掛川城が再建され、重要文化財の二の丸御殿も残っているので、城下町風 の町作りがすすめられて、お城付近の家並みは白壁で統一されて、銀行等 も両替屋風に造られています。



                    写真・文  冬冶様(掛川市) 


 掛川城二の丸御殿 
公式的式典の場、藩主の公邸、藩の役所としての機能をもった施設で、 東海道城下町に残る江戸時代の建物としては、亀山城多門櫓とここ だけです。重文指定ですが、見学可能で、当時のさむらい達の生活が 実感でき、一見の価値があります。




写真・文  冬冶様(掛川市))

 
 太鼓櫓   
城下に時を知らせる太鼓を収めた建物です。大太鼓は御殿に展示されています。



                          
天守閣と太鼓櫓


                     写真・文  冬冶様(掛川市)


 大手門  
復元されたものですが、木造の日本瓦ぶき、入母屋造りで屋根にはシャチ瓦が飾られ 勇壮、豪華な門です。
大手門から西へ宿場の中心部があり、本陣、問屋場、商店等が建ち並んでいましたが、古い建物はなにも残っておりません。




写真・文  冬冶様(掛川市))



  蘭人ヘンミの碑 
  長崎の出島に置かれていたオランダ商館の第149代の館長であったゲスベルト.ヘンミが1798年江戸からの帰途、掛川で死亡したので、天然寺に葬られた。
 
 オランダ商館長は毎年、後には4年に1回、往復3ヶ月の旅をして、長崎から江戸までのぼり、将軍に謁見してご機嫌を伺うことになっていた。
 
 文化2年、1805年、掛川藩主太田資順が作らせた掛川誌稿によると、ヘンミは1798年その年の初め、長崎をたって3月15日将軍家斉に謁見し、4月に帰途についた。4月21日掛川連尺の本陣に投宿したが、病を得て客死した。
 
 死に際して水をほしがったというし、墓誌には渇病とあるから、旅の疲れと日射病だったと想像されるが、詳細は不明である。天然寺にはオランダ語の墓碑銘が建てられた。
 
 オランダ語の碑文には1798年,寛政10年6月8日往生、9日ここに葬るとある。天然寺過去帳には、通達法善居士という仏家の戒名が残っている。
 
 この墓碑は安政9年の大地震で破損したが、オランダ商館から小判50両が寄進されて、立派に修復された。
 
 その後明治維新にいたるまで、毎年2両づつ香花料が寄進され、オランダ貢使が往来の途次には立ち寄り、赤ワインを碑面に注ぎ、1本は寺に贈ったということである。
 
 しかし維新後はまったく荒廃し、青苔深く蒸して弔う人もなくなっていった。大正14年5月、天然寺の住職および発起人の尽力により、町内有志の寄付を募って、墓碑を修理し記念碑が建てられた。その時はオランダ公使も出席して,供養を営んだということである。




写真・文  冬冶様(掛川市))


 蕗の門   
掛川城内堀畔にあり、本丸、二の丸等に通じる要所にあったもので、軒瓦には藩主の 家紋が使われております。 掛川大祭の大名行列はここから出発して城へ向かいます。




写真・文  冬冶様(掛川市))


 十九首塚   
藤原秀郷らが、平将門の乱を平定して、将門ら19人の首級を携えて京に帰る途中、掛川宿のこの地で、京から来た検視の勅使と合流して首実検を受けた。首実検の後、19人の首級は別々に埋葬されたが、現在残っているのは将門の首を埋葬した塚のみである。

十九首塚

 今回掛川市がその首塚の近くに、小公園を作り、将門の石碑を移し、周りに残りの18人の家臣の名を刻んだ石碑を立てて十九首塚として祭った。
 供養祭は毎年春秋の彼岸と8月15日の命日に行われる。
なお、ここの地名は十九首塚があったことから十九首町、じゅうくしゅ、と呼ばれるようになった。

写真・文  冬冶様(掛川市))


秋葉神社の遥拝所

写真・文  冬冶様(掛川市)
撮影  2000/12/20  

秋葉街道の大池橋から10mほど入ったところにある秋葉神社の遥拝所。この中に下の写真がある。



秋葉街道の入口の様子の写真

写真・文  冬冶様(掛川市)
撮影  2000/12/20  

この写真を見ると往時の大鳥居を偲ぶことができる。



掛川城天守閣

写真・文   ねこ虎様(北びわこ)
撮影     2001/1/31

山内一豊が近世城郭に大修築し、城下町を完成、後、松平定勝が譜代大名とし て 入り、後期は太田五万石の居城、城跡は掛川公園、本丸山頂に平成五年に一豊  当時の天守閣が再建される。
 宿場は慶長六年に置かれ、嘉永七年十一月の大地震で大半は倒壊焼失し、再建 された。





狂歌で下る東海道五十三次


          花御座は懸川日坂蕨餅菊川矢の根小夜の中山

 袋井宿から二里余り、火伏せで知られる秋葉神社への分れ道があります。街道のそばに遥拝所がありましたので参拝。広重の絵にも描かれた大池橋を渡ると、やがて懸川宿(静岡県掛川市)に入ります。山内一豊が土佐二十四万石の城主になる前、掛川城を近世城郭に修築し、城下町を完成させました。掛川の人々はいまでも一豊に親しみを持っているそうです。幕末、この地の庄屋岡田佐平次とその息子良一郎が、二宮金次郎の報徳運動を推進し、遠州報徳社の拠点となりました。
 名物は白酒・藍鮫(刀の鞘や柄に用いる)・花茣蓙、そして葛の繊維で織った葛布です。葛布は武士の裃や袴を作る材料で、諸国に名が通っていたらしく、松井章之の『参府日記』にも「掛川の入り口十九首町と申処の松屋又右衛門と申者方え小休ミ、此処葛の名物にて、商人持来候ニ付六反求メ、外ニ合羽地五反注文いたし置候」とあります。十九首町は、平将門一門十九人の首塚がある所です。(現在でも、葛布で作った民芸品がうられています)
 一里二十九丁で日坂宿(掛川市日坂)、小夜の中山の西坂です。名物は蕨餅。「古より蕨餅とて其名あるものなり、葛の粉をまじへて蒸餅とし、豆の粉に塩を加へて旅人にすすむ」と古書に見えます。
 西行の歌で名高い小夜の中山は東海道の難所です。途中、道の上に夜泣き石があります。(広重の日坂の絵をご覧下さい)身ごもった女が山賊に殺され、その死骸から赤ん坊が生まれました。赤ん坊は泣き声も出ないほど弱っていましたが、そばにあった丸い石が大声で泣き出しました。それを聞きつけた村人に救われ、飴で育てられました。その後も石は夜になると泣き声をあげたといいます。(この石は現在国道沿いの茶屋小泉屋の裏に移されています)名物「子育飴」(もち米と麦芽で作った水飴)もこの話に由来します。ただし、この伝説には、別説として月小夜姫と小石姫にまつわるものがあり、どうもこちらが原型のようです。
 青木坂を下ると菊川(静岡県榛原郡金谷町菊川)です。ここは小夜の中山の東側にあり、中世まで宿駅として栄えましたが、室町時代以後は繁栄は金谷宿に移り、矢の根(鏃)の産地として名が残りました。名物は子育飴・青菜飯・自然銅など。もうすぐ金谷宿です。小夜の中山越えはさすがに疲れました。ではまた。

寄稿 八代市 ちくたく凡様