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30.浜松宿 冬枯の図
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宿場
東海道五十三次
30.
浜松宿 冬枯の図
歌川広重
天保3〜4年(1832〜33)

浜松宿の現在の風景

写真・文 冬冶様(掛川市)
撮影   2001/1/21

焚き火をしながら暖をとっている雲助達とその火をかりてタバコを吸っている旅人等が描かれ、正面に浜松城 その右手前にざざんざの松がある。

      文・ 冬冶様(掛川市)

目次
浮世絵と同じく正面右手に浜松城、その右手前にざざんざの松林が見える角度をもつ 場所は今の子安町から馬込橋の間のどこかであろう。その間を歩いて探したが、 いまは高い建物が並び立ち,浜松城は全く遠望できなかつた。土地の人も高いビルからでないと、見えないだろうという。この写真は歩いてみた旧東海道の今日の姿である。




浜松宿の見どころ


浜松宿の現在の風景

写真・文  冬冶(掛川市)様
2001/1/21 撮影

天竜川を渡った旧東海道は現国1と交叉 して市街地に入り、しばらく行くと、これ より浜松宿の標識がある。それから西へ 馬込橋あたりまでの街道から北西の方角 を眺めると、広重の描いた景色がみられた のだろう。浜松城が正面やや右手に、その 右手前にざざんざの松が描かれている。 今は高い町並みが視界を遮り,浜松城も平 地からは見えない。松林は残存しない。


浜松城

写真 冬冶(掛川市)様
2001/1/21 撮影


       
メイン大通り

写真・文  冬冶(掛川市)様
2001/1/21 撮影
      浜松宿の本陣跡

写真・文  冬冶(掛川市)様
2001/1/21 撮影

浜松城は家康がそれまでの引間城を大改築し、浜松城となずけ、駿府城 に移るまで17年を過ごした。従って浜松には家康にまつわる史跡が多い。 宿場町は城から南へ連尺町、伝馬町、旅篭町とつづき、その名によっ て往時の宿場が偲ばれるが、戦禍により全く焼失し、なにも残っていな い。ただ、高札場跡、本陣跡等の標識が立っているだけである。 城下町と宿場町を兼ね東海道最大の6軒の本陣があり、その繁栄がしの ばれるが、今は浜松市のメインの大通りで車の往来がたえない。




狂歌で下る東海道五十三次


    浜松の天龍川ハ船わたり池田の宿に見付袋井

 浜松宿(静岡県浜松市)は箱根と並んで本陣の数が東海道最多で六軒(天保のころ)。そのほかの旅籠も九十四軒。遠州・駿州中最大の宿場です。本陣の一軒梅屋は、著名な国学者賀茂真淵の婿養子先でもあります。真淵は浜松の神官の家に生まれました。(その生家は現在記念館になっています)街道から少し離れたところに、真淵を祭る県居(あがたい)神社があります。
 浜松城は、今川氏の引間城を基として徳川家康が築城し、この地を引間(引馬)から浜松と改めました。野面(のづら)積みの石垣が見られる名城です。徳川幕府が成立して以後、譜代大名六万石の居城になり、水野忠邦や井上正直などが在城しています。
 室町時代、六代将軍足利義教がこの地を通りかかり、「浜松の音はざざんざ」と謡い、それ以来ここが浜松と呼ばれるようになったという地名起源説がありますが、浜松の名は室町時代以前の文献にすでに見えています。しかし、伝説とはいえ、この「ざざんざの松」は、広重の絵にも描かれており、「浜松の音はざざんざ」という詩句は、狂言小歌や長唄の中でも唄われ、また「ざざんざ節」という江戸初期の歌謡まであります。
 端午の節句に行われる浜松の大凧合戦は有名で、遠州灘から吹き付ける強い風に凧を揚げて競います。名物は自然薯・川魚料理。(浜松はいま、楽器とオートバイの街です。駅前は「アクトシティ浜松」になっており、賑わいを見せています) 
 いま浜松市村櫛町で行われている浜名湖花博を見て行きたいと思いますので、池田・見付・袋井は次回に。ではまた

寄稿 八代市 ちくたく凡様