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29.見附宿  天竜川之図
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宿場
東海道五十三次
29.
見附宿  天竜川之図
歌川広重
天保3〜4年(1832〜33)

見付宿の現在の風景

写真・文 冬冶様(掛川市)
撮影   2001/1/21

天竜川の渡しを描いている。舟渡しはこちら池田村から対岸の中野町村まで、川幅900米ほどの間、中洲を 挟んで小天竜と大天竜の二つ瀬をわたる。航路は上、中、下之渡船の三つがあった。手前が見付側である。

      文・ 冬冶様(掛川市)

目次
熊野の長藤で有名な行興寺近くの池田の渡船場は整備されて公園となっている。 旧東海道は天竜川近くで直角に 右折して200米ゆくと渡船場に到達する。天竜川渡船場跡の標識が立っている。




見付宿の見どころ

見付宿の通り

写真  冬冶(掛川市)様
2001/1/21撮影


旧小学校(白い建物)

写真・文  冬冶(掛川市)様
2001/1/21撮影
       見付宿を示す石碑

写真・文  冬冶(掛川市)様
          2001/1/21撮影               

 袋井宿から1里半、江戸から60里30町、東海道のほぼ中間にある。 平安時代より国府所在地として、また東海道の大きな宿湯として栄え、本陣2、 脇本陣1を擁していた。宿場町の地形は窪地で、袋井宿からは東坂を下り、町 はへの字に町並みがつづき、折れ曲がった角を右は姫街道、左折して西坂をの ぼって、天竜川の渡しへと達した。町の中央部分には本陣、旅篭、商屋が 並んでいたが、現在では古い建物はほとんど残っていない。御朱印屋敷跡、高 札湯跡、問屋場跡等の標織が立つている。通りに直角に数多くの横道がわかれ、 その奥には寺院、神社等がありその名で、例えば玄妙寺子路と呼ばれている。  見付宿という大きな宿場があったのに、なぜ広重は天竜川の渡しを描いたの か不思議ですが、天竜川が東の大井川とともに交通の大難所だったから、印象 が強かったのでしょう。



狂歌で下る東海道五十三次


 浜松の天龍川ハ船わたり池田の宿に見付袋井(つづき)

 天龍川を船で渡ると間の宿池田宿(静岡県磐田郡豊田町)です。ここには謡曲で有名な熊野(ゆや)母子の墓があります。天保十二年の松井章之『参府日記』に「当村内に行孝寺と申寺有り、湯谷のボダイ所の由、湯谷の墓石二ツ有り、湯篭愛のザロン梅墓所の前に有り、右は篭愛の梅の植継の由」とあります。「篭愛」は「弄愛(このみめでること)」の意味でしょうか。「ザロン梅」は座論梅で、梅の一品種です。昔は熊野を湯谷と書くことが多かったようです。現在は喜多流だけが「湯谷」を使い、他流は「熊野」です。熊野は池田の遊女宿の女主人。平宗盛の寵を得て都に上りました。宗盛の寵を得たのは娘の侍従だったともいいます。「行孝寺」は今の行興寺。熊野が植えたという天然記念物の長藤の花がりますが、座論梅のことはあまり知られていないようです。名物は川魚料理と団扇餅(はりつけ餅ともいいます)。
 浜松から四里ほど、見付宿(磐田市見付)に着きます。見付天神の裸祭は天下の奇祭といわれています。名物は、「見付五文とり袋井いれて、首に掛川お江戸まで」と唄われた、一個五文の塩餡饅頭、古源の足袋、浜納豆などです。
 見付から一里半ほどで袋井宿(袋井市袋井)。「東海道五十三次のどまん中」(袋井市の観光キャッチフレーズ)です。遠州三山のひとつ、曹洞宗の名刹可睡齋の牡丹の花は有名です。また典座(てんぞ)がつくる精進料理も食べられます。かつて、この寺の住職等膳が、浜松城主徳川家康に招かれ、お目見えの席で居眠りをしたため、家康から「眠る可し」と言われたため「可睡齋」の名が付いたといわれています。
 名物は丸凧・鰻・花茣蓙など。わたしも精進料理をいただき、すこし居眠りして行くことにします。ではまた。

寄稿 八代市 ちくたく凡様