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2.品川宿 日之出
品川宿の現在の風景
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宿場
東海道五十三次
2.
品川宿 日之出
歌川広重
天保3〜4年(1832〜33)

品川宿の現在の風景

写真・文  おーさん様 (三郷市)
撮影日時  2000/11/29           


参勤交代の大名行列は気候の良い春の行事のようだった。 日本橋を七ッ立ち(午 前4時) すると高輪から品川宿あたりで明ケ六ッ(午前6時) 頃となる。 小憩して出 発した。 大名行列の最後尾 と早々と店を開いている宿場外れの茶店と女達 そして明け 始めた。  品川沖から鮫州沖の海と茜色に染まった空が清々しい。

文:おーさん様 (三郷市)



目次
旧東海道の第一の宿場町の面影は無く、普通の家並と変わらぬ様である。 八ッ山橋より旧道を写したかったが、大きな工事が始まっており断念した。
唯、それを思わせるのは、横断幕の「東海道四百年祭」のみか。









品川宿の見どころ


品川「品海公園」

品川「品海公園」

写真・文   おーさん(三郷市)
撮影    2000/11/29

八ッ山橋を渡り、旧東海道品川宿に入って行くと、左側に 道路に面した 小さな空間がある。ここが日本橋より二里の地点なのだろう「品川宿の 松」が改修工事竣工記念として植えられていた。










高輪大木戸跡   左は国道1号線(旧東海道)




上の 標柱の拡大写真

写真・文   おーさん(三郷市)
撮影    2001/9/13

高輪大木戸は江戸時代中期の宝永7年(1712)に芝口門 に建てられたのが起源である。亨保9年(1724)現在地 に移された。江戸の南の入口として旧東海道の両側に石垣 を築き夜は門を閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制 の機能を持っていた。 京上り.東下り.伊勢参り.の旅人の 送迎もここで行われた。付近に茶屋なども有って 当時は  品川宿にいたる海岸の景色も良く月見の名所でもあった。

 場所は、日本橋と品川との中間やや 品川寄りの泉岳寺近くにある史跡です





鈴ケ森遺跡

写真・文   おーさん(三郷市)
撮影    2001/12/18

寛政11年(1799)の大井村「村方明細書上」の写によると、慶安4年(1651)に開設された御仕事場で、東海道に面しており、規模は元禄8年(1695)に実施された検地では、間口40間(74メートル)、奥行(9間)(16.2メートル)であったという。
 歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ石碑は、元禄6年(1693)池上本門寺日額の記した題目供養碑で、処刑者の供養のために建てられたものである。 大経寺境内には、火あぶりやはりつけに使用したという岩石が残っている。
 ここで処刑された者のうち、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などは演劇などによってよく知られている。
 江戸刑制史上、小塚原とともに重要な遺跡である。



狂歌で下る東海道五十三次


  品川は右広原海[ワタツウミ]左り茶屋牛車町江戸の外輪
  初旅の人に見せばや道端の名所よみてしらせぬるかな
  言の葉も狂歌のさまもわろくとも都東を見ぬ人のため


 品川宿(品川区北品川・南品川)は東海道最大の宿場、広重の絵に見られるように茶屋が立ち並び、江戸に向かって右側には海が広がります。上りの旅人にとっては第一の、下りの旅人には最後の宿場です。送別や境(酒)迎えの宴をここで催すことも多かったようです。ここはまた吉原に次ぐ歓楽地で、多くの飯盛女(宿場遊女)がいました。古典落語の名作『品川心中』『居残り佐平次』にその様子が描かれています。著名な妓楼「土蔵相模」には、長州攘夷派の若い武士たちが集まり、ひそかに策を練っています。日帰りのつもりで川崎大師に参詣し、つい品川で泊まり込んでしまう男も居ました。「品川でよね饅頭をすえらかし」(古川柳)
 品川宿を過ぎると高輪の大木戸があり、狂歌のいう「江戸の外輪(外曲輪、とぐるわ。城の最も外側の囲い。牛車の縁語)」になっています。ここからが御府内(江戸)です。近くに車町(港区高輪二丁目)があります。増上寺に家康の安国殿を建てたとき、木や石を運ぶために牛車が使われました。その車夫が住みついたのが車町です。牛車町はここのことでしょう。
 さて、道中歌はこれで終わっています。というのは、熊本藩細川家の上屋敷は龍ノ口(千代田区丸の内一丁目)にあり、日本橋(中央区日本橋一丁目)までは行きません。細川家の武士と思われる狂歌の作者は、上掲の二首目・三首目の歌で、この長い旅の狂歌(道中歌)を締めくくっています。
 わたし「お疲れ様でした。おかげで楽しい空想旅行ができました。でも、あなたの道中歌に意味がよく分からないところ、おかしなところがあって、参りましたよ」
 作者の武士「そこもとも、疲れたであろう。それにしてもよくもまあ、あのようなうつけたことが書けるのう。そこもともよほど脳天気な輩じゃ。ま、これから特に精神面の健康に留意して、ゆるりと過ごすがよいぞ」
 お侍さんの忠告に従って、これからゆっくり休むことにします。ではまた、機会がありましたら。

寄稿 八代市 ちくたく凡様